いるぼん本室からダダモレした萌えの集積救済所。キムナムギル、成均館、イジェフンネタ多し~。
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男たち、女性のジャンルで反省文を書く
[ノバリのシネマ老眼鏡]男性の反省の問題で調べた<建築学概論>

メロとロマンチック コメディは永らく女性観客のためのジャンルであった。 主に外部の妨害と禁止で悲劇的離別をむかえる男女カップルを見せて涙に訴えるのがメロならば、ロマンチック コメディは互いに違う男女が‘ミルダン’を経て相互誤解と葛藤の克服してついに‘キス’(あるいは結婚)で仕上げをする。 前者が主に涙に、後者が主に笑いに寄り添って両極端の対照を見られるが二つのジャンルは多い点で似ていた。 概して異性愛愛中心で、特に女性に結婚と過程を前提で‘愛’に対するロマンチック幻想を注入したり確認させて、いわゆるスペック低く容貌も良くない平凡な男でも心だけは最高の純真な男、あるいは周辺にある平凡なこの上もない男の本当に価値を女性に説得させることだ。 しかしこのような‘保守的な’価値の中でも、メロとロマンチック コメディは当代女性たちの隠された、あるいはとても発火することができない欲望を表わしたり声を張り上げて叫ぶジャンルでもあった。

だが、近ごろ韓国のメロとロマンチック コメディはこのような‘ジャンル法則’を相当部分破って逆らう。 この頃このジャンルらで話を導く主要話者は女でなく男だ。 過去このジャンルでの男性と女性の性の役割が一定部分倒置されているのはもちろん、権力関係も一定部分さかさまになる様相を見せる。 ついに外部の障壁あるいはお互いの誤解を勝ち抜いて結ばれることが必ず必然的なエンディングではなくても大丈夫になった。 こういう過程でこのジャンルはかえって女性より男性観客にさらにアピールしたり、女性たちのロマンチック幻想を充足させたり欲望を代わりに表現するより男性たちの‘反省文’で機能する面がより大きいようだ。 最も最近このような特徴を端的に見せる映画で<建築学概論>を上げられる。


<建築学概論>は<春の日は行く>以後久しぶりに‘男のためのメロ’を標ぼうした映画だ。 幼くて、未熟だったことだと曖昧に表現される地点らのチジラムをきまり悪い程一つ一つ明らかにするが、代わりに初恋のタルダラムでかばっているから私たちは概して(私たち皆にいた)その‘未熟さ’を反すうして恥じる代わりに初恋の甘い包装にだけ(意図的に)止まったままこの映画を半分ぐらいだけ読みだす。 それで‘テナシア’カン・ミョンソク編集長が適切に指摘したように,この映画はただ初恋の郷愁でだけ消費されるより‘男の成長映画’と積極的に解釈される必要がある。 しかしカンミョンソクの熱烈な擁護がちょっと行き過ぎるという気がするのは、この映画で描く成長が未成熟だった過去を直視して再構成するのに終わる面がさらに多いためだ。 もちろんそういう‘直視’自体が成長の一面でもあり、それでこそ‘未成熟、下手さ’という言葉で包装されるチジラムの暴力がもう少しシニカルに暴露されることはない言葉だ。

映画を見てきた後数週間映画を熊かんで見て私は結局スンミン(イ・ジェフン)がソヨン(ペスジ)と恋愛を願わなかったという結論を下した。 それより彼が願ったことは一定の距離中で自身の‘片思い’という熱が安全に維持されること、すなわち自身の感情それ自体を極大化してこれに没頭すると見られる。 しかし‘恋愛’という件感情の問題を越えて関係の問題だ。 さらに相手が自分にも日程以上の好意を見せるならば、以後その関係は自然に告白と恋愛という段階に移ることになる。 しかしナプトゥギの忠告があり始めてこそ告白を準備した彼が、果たして‘恋愛’の段階に移る心の準備ができていたのか、いや‘恋愛’が何か知っていたのかははなはだ疑わしい。 恋愛ということをただ抽象的で曖昧な存在と感じるだけ、かえってこの未知の領域に対して大きな恐れを持っていたことがでないか? それでソヨンの家の前で合うことになった‘その状況’は、もしかしたらスンミンがクジェコッ遅延させてきた‘恋愛へ渡らなければならない瞬間’を自ら破棄して逃げるのを正当化する理由を見つけたことに過ぎないのかもしれない。

結局<建築学概論>は映画にも言及される万古不変の真理の“初恋は本来なされない”という命題がなぜところなのか例示を通し見せてくれる映画でもある。 初恋は幻想にだけ持った異性に対するどんな相異現実で初めての具体的対象に会う事件だが、恋愛は必然的に無数の試行錯誤と葛藤、そして‘幻想の崩壊’を伴う。 多くの人々はここで自己防御のために幻想の崩壊を避けようと逃げやすい。 こういう逃亡者らに初恋は宿命的に失敗しなければならない、悲劇的崇高さの対象になる。

結局“初恋は本来なされない”という命題がところであることは初恋に臨むこれらが半分ぐらいは自発的に失敗に向かって進むことによって一種の‘自分実現的予言’になるためだ。 したがってこの命題はこのように素早く変化することができる。 “(片思いの)初恋は必ず失敗しなければならない。”

このような失敗をまともに正当化するために彼は自身を被害者で作る。 恐らく今の方法で言ってみれば“漁場管理にあったまま心をもてあそばれた被害者”という式の怒りであろう。 (そこにもしかしたらソヨンの純潔を曖昧に問題視するということなのかも分からない。) 当初ソヨンを‘サンニョン’と規定したのはスンミンの友人ナプトゥギジマン、スンミンは自身のフィアンセにもこの呼称を聞かせることによってソヨンに対するその評価を公式化して自身の初恋を‘純情がもてあそばれた’ことで叙事化する。 ところでこの‘サンニョン’という評価がより多層的な意味を抱いているのではないか疑いを持つ。 結果的にソヨンこそ‘敗北で終わらなければならない初恋’という叙事に最も大きい障害物だったためだ。

スンミンがためらって迷った地点をソヨンは何回も跳び越えた。 2人だけのすべての思い出が概してソヨンの提案を通じて作られた。 ソヨンは酔中スンミンのキスは分からないふり受け入れたにせよ先輩のキス試みは断ったし、スンミンの前で小便をしたし、2人だけの空間を作ってスンミンを招いたし、そしてCDプレイヤーがないとしシディを戻したスンミンのために2人だけの空間にまたそのCDプレイヤーとCDを残す。 果たしてスンミンがソヨンの心を分からなかったのだろうか? ソヨンの信号と言葉と行動を解釈するには過度に純真で未熟だったとはいうが、‘その日’ソヨンが一日中残したポケベル連絡は別に置いても、ソヨンが残したCDプレーヤーとCDを受けても彼はソヨンをまた訪ねて行かなかった。

またソヨンの家の前での場面に帰ってみよう。 この場面で女性観客人私は映画が意図しなかった他の緊張をいっぱい感じたが、すぐに‘酔中性暴行’、進んで‘酔中強姦’の可能性が多い状況という点からだ。 いくら私たちの現実が女性の意志と関係なしで成り立った酔中性暴行が和姦と解釈される傾向が濃厚とはいうが、私はこの映画でもその旧態依然で暴力的な状況が再現されるか恐ろしかった。 しかしその事件以前、スンミンが酒に酔ったソヨンにキスした話を聞かせた時ナプトゥギが“酔っぱらった人にそうするのは暴力だ”と明確に基準を分け与えたことがあるではないか。 すぐにそのような状況でスンミンが選んだ行動は逃げながらタクシー運転手に怒ること、そして自身の幻想がこわれて初恋が挫折したことの責任をかえってソヨンに回すということだった。 これこそスンミンの自分期だけの決定的な証拠ではないだろうか?

結果的にこれらの関係で本当に最高の純真な側はソヨンであったし、かえって損傷を与えた側、さらに好きな女を危険な状況に放置したのはスンミンだ。 それでも自分期だけの叙事を絶対化したスンミンは15年後ソヨンがまた訪ねてきた時にその叙事の欺瞞性とわい曲された部分をまともに直視することになる。 “いったいなぜ日訪ねてきたのか?”と大声を張り上げた時その質問が願望の叫びなのはすぐにこういう理由のためであろう。 しかしこのような直視でこそ、文冒頭に言及したように成長の開始だ。 私たちが成人になった彼の回想を通じて確認するように、彼の初恋に対する記憶はこれを通じてはじめてまともに訂正されて再構成される。

ここで私たちはやはりオム・テウンが自身の欺瞞性を直視して告白する男キャラクターに出てきたまた他の映画<シラノ;恋愛操作団>を思い出させるはずだ。 失恋の傷に勝つことができなくて時間が過ぎるように相変らず痛く感じる人物と設定されたオム・テウンのキャラクター、ビョンフンは映画がしばらく進行された後実はガールフレンドを‘意図的に誤解’したしこれを口実でガールフレンドと別れたという事実を告白する。 <シラノ;恋愛操作団>が最高の純真な愛を大事に保管した男を通じて女性観客らの幻想を充足させてくれながらも同時に男性の反省文の役割をする過渡期的作品だったら、<建築学概論>は本格的に解いていった男の自己反省文としても関係ない。 そうした点で、<建築学概論>より3週前封切りした<ラブ フィクション>もやはりロマンチック コメディという本来女性たちのジャンルを祈って放つ反省文なのに、<ラブ フィクション>側がもう少し直接的な反省を表わしているといえる。 これはもしかしたら<ラブ フィクション>のジャンルの問題企画しても、この映画のチュウォル(ハ・ジョンウ)が<建築学概論>の成人スンミン(オム・テウン)より厚かましい代わりに率直で恋愛経験が多くて、自身が使うフィクションを通じて自らを投射してみる機会がもう少し多かったためなのかも分からない。

上に言及された総三編の映画は既存のロマンチック コメディより男女関係に対する観察や解釈がもう少し繊細で少なく権威的であり、女性の心理を‘皆知るふり’といいながら女性たちが同意できない社会の保守的価値を押しこむこともない。 かえって映画の中女性たちは男たちよりはるかに成熟して思慮深い人物らで描写される。 それでこれらに求愛する男たちはその女性たちに自身の価値をアピールして選択されるために努めて努力して、その‘価値’の最も大きい部分を成し遂げることがすぐに率直な反省ができる能力が備わっている。 この映画の監督が全70年代序盤生という点、そして90年代初期フェミニズムが大学街を熱い雰囲気にする時20代を送って自分たちも認識できない鳥にある程度フェミニズムの洗礼を受けた面が明確に影響を及ぼしたことと、個人的に推測する。

もちろん映画の中風景と私たちの現実はまだ余りにも違う。 センセーションを起こした事件の主人公が女性さえすれば一瞬のうちに‘XX女’で呼称されてインターネットを歩き回って皆の功績になることが茶飯事だ。 すべての女性が男たちより成熟したり立派でもないのみならず、まともに反省して謝ることができる男性の数字も相変らず少ない。 女性に向かったぞっとする暴力を指示する発言が‘冗談’でも‘抵抗’で包装されたりもする。 しかし、少なくとも2012年大衆に最も人気を呼んで興行した映画で‘酒に酔った女性に性的接触をするのは暴力’ということが当然の常識と前提になることが今日の現実ならば、私たちの10年後も今よりはより良くならないだろうか。 今日の当然の常識が実は昨日の新しくて挑戦的だった価値だったように、そして私たちが認識することが出来ない新しいそんなに当然になったことが多いように。

ノバリ/ソウルアートシネマ プログラム コーディネーター

[メディアス 2012-04-18 13:40:19] 元記事はこちらから

※イジェフン萌えすぎてスルーしてしまいましたが例の場面、目の前の現実にただ自分だけ傷ついてスヨンの身の危険を想像もできずに逃げ出すなんて卑怯極まりない。しかもその後も彼女の気持ちお構いなしに自分だけリセットして勝手に完結させて。。。スンミンは深く深く海より深く反省すべし。
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